何曜日だっていざよいちゃん

世界は生きづらく、そして美しい。

下着モデルにエロさ・華奢を求めすぎるな。

※これは前に投稿したものなんですけれど、自分のなかでまだまだ未熟だなぁと思ったため、ブログに移しました。評価が低いとか、ブログならいいだろうって気持ちではないよ。使い古したノートとまっさらなノート、なんでもかけるのは前者な気がするの。

 

心も身体もLサイズのいざよいです。

インターネットの誹謗中傷が問題になる中、プラスサイズモデルの藤井美穂さんの存在を知りました。さらに誹謗中傷やルッキズムについて見ていくと、「下着モデル 誰得」というキーワードにたどり着いたのです。

最近では芸人さんやスポーツ選手など、色々な人が下着モデルに挑戦されています。メディアで公開されるたびに、話題になっていますね。体型も様々な方がいらして、細身のモデルさんとは印象が違うため、「いやなんでお前が?」、さらに言うと「誰得?」となっているのでしょう。

 

いや、俺得だから。

 

モデルさんて、本人の美しさだったり、ブランドのコンセプトにあっているかだったり、いろいろ基準があると思うんですけど、超乱暴にいうと要するに着用例ではないでしょうか。みんなが「内臓入ってる?」っていうウエストしてるモデルさんしかいないと、自分が着たときの予想が立たないから。というか、それで服を買って失敗した人って今まで何人いるのでしょうか?

下着モデルもそう。「G85まで対応!」って言ってるのに、モデルさんが華奢だと「本当に対応してますか?」って気持ちになる。華奢なモデルさんしか包めないブラより、霊長類最強女子も包めるブラの方が、安心して乳を任せられませんか?

 

モデルさんの多様性は、お洋服や下着の多様性であり、さらに言えば女性の多様性になるのだと思います

「私のサイズでもこんな服が着られる!」って思える女性を増やすために、サイズ展開とともにそれに対応できるモデルさんが登場してほしい。

 

ということで「誰得?」って言ってしまう人へ。

下着モデルは、エロや美として消費するものではありません。

あなたの言葉はモデルさんだけでなく、多くの女性を傷つけ、新たな可能性を閉ざそうとしているのかもしれないと、考えてみてほしい。

 

最近記事を読みはじめたのですが、藤井美穂さんがまじでかっこいいです。

やっぱり、自分らしく生きられる人が一番かっこいいよな。

https://mirror.asahi.com/article/13581420

 

 

HSPはつらいよ。

※はじめに さっそくタイトルが変わりました!

 

世界一受けたい授業」でHSPが紹介されていましたね。

「「繊細さん」の本」の武田友紀先生がご出演されてて驚きました。

疲れて寝込んだりしてないといいな……。

私がブログで書いたり話をしたりしたことで、「自分もHSPかも」と言ってくれる人も案外多くて、じわじわ広まっているんだなぁと思います。

 

ただ最近、2つ思うことがあります。

 

1つは「HSPは誤診が多いこと」。

それは私の周りで「HSPかもしれない」という人が、双極性障害発達障害である場合が多いためです。

 

・感覚過敏

・繊細で、ストレスに影響されやすい

・気分の浮き沈みが激しい

・こだわりが強い

 

などは、うつや発達障害の人にも見られるものです。

調べたところ専門家でもHSPか、他の病気や障害かを判断するのはかなり難しいらしいのです。

当然、病気や障害だった場合、適切な処置は変わってきます。誤診は今後に大きく関わってきますが、今のところHSPは自己診断に頼っている部分が大きいです。

HSPがうつや発達障害を併発している場合も多いので、「お前はうつだから違うよ」などとも言えないのですが……。

そしてHSPでも「強い光は大丈夫だけど、大きな音が苦手」というように、ボーダーは人によって違うため、本当に難しい。

 

https://hsptest.jp/

↑こちらのテストは質問項目が多く、どのくらいHSPか具体的に数値化できます。有名な23項目のうち12項目が〜って奴よりわかりやすい。

-52~140で採点されるらしく、今やってみたら124でした。

 

 

そしてもう1つは「HSPは長所ではないこと」。

HSPは「共感性が高い」「想像力が豊か」という、人にないものを持っていると言われます。

しかし優しいわけでも気が利くわけでもなく、ただ人より繊細というだけの特性だと理解してもらいたいなぁ、と。

 

なにが言いたいって、

今後自称メンヘラみたいな自称HSPがいっぱい出てくる気がしてめっちゃ嫌。

それで「◯◯ちゃん優しいから〜」「気が利くから〜」みたいなコメント待ってるやつが出てくる。

絶対嫌。

 

生きてるの苦しいって思ってる、まじめに悩んでる人がいますからね。

 

 

ここでHSPの4か条、確認しようね。

ちなみにこれ、全部当てはまらないとHSPではないとされます(威圧かけてないよぴえん)。

 

①深く考える

②過剰に刺激を受けやすい

③共感性が高く 感情の反応が強い

④ささいな刺激を察知する

 

 まぁ、自称する人が出てくるくらいまで、まずは認知が進んでほしいよね〜。

 

「ヲタクに恋は難しい」って…ホントに?

オタクくんが恋愛できないのは、月10本アニメ観てるせいでも部屋にフィギュア飾ってるせいでもなく、単に他人とコミュニケーションがとれない、扱いにくい人間だからじゃないですか?

(※オタク批判ではなく自己紹介だと思ってください※)

 

 

『ヲタ恋』の話ずっとしたかった〜。原作未読のおかげか、私は映画普通に楽しめました。

あと幸運なことに、私はオタクって理由でいじめられたことはないんだなって気がつきました(他の理由では……うふふ!)。

 

ていうか今、オタクってだけでそこまでの生きづらさ、感じるんでしょうか?

オタクって近年、従来に比べライトなものになってるじゃないですか。

「漫画オタなら手塚治虫くらい全部読めよ」みたいな人ってまずいないし、ニッチなものを趣味としていれば、というかもはや趣味があれば名乗れるくらいになってる(もちろんガチな人はいるけどね)。

チェックシャツのアキバ系ももはや希少価値で、アイドルがオタクを名乗ったり、「擬態」が一般化したり、ルックスの偏差値も上がっている。

 

うーん、それより問題なところ、ありません?

・融通がきかない

・自分を客観的に見られない

・コミュニケーションがとれない

・恋愛やオシャレを見下している

 

一番下は、なかなかに深刻じゃないでしょうか。

オタクって夢中になれるものに打ち込んでいるうちに、周囲はオシャレや恋愛に走っていて、いつの間にか周りとの時差ができてしまった、悲しき獣なんじゃないかと。

うん、急にファンタジーだと思ってた恋愛がリアルになるの、怖いよね。

それを「そんなものは外道! 拙者たちの方が高等で候!」と思い込んで、類が友を呼んで、そんなコミュニティーが心地よくて……ってしてたら魔法使いの30歳になってたりするのかなぁ……と。

 

オタクの同調圧力が良くないんですよ。「オレらにはそんなもん必要ないよな!」っていう仲間意識が。

特にオタクが迫害されてた時代を知っていると、余計に。

 

 

でも、うすうす気づいていませんか?

恋愛してるオタクもいるって。

 

20代そこそこになったら、タイムラインに

・同棲や彼氏持ちをさりげなくアピールしてくる

・突然「ダンナ」「嫁」ってワードを出してくる

・出産報告をしてくる

フォロワーの1人や2人、出てくるでしょう?

 

大学生のセックス経験者の割合は、男性が54.4%、女性が46.8%だそうです。

https://www.nippon.com/ja/features/h00354/

減少傾向にあるとはいえ、恋愛してる人は普通にいるんですよ。

ファンタジーやメルヘンじゃあないんだから。

恋愛だけが幸せではないけれど、恋愛だって幸せの一つの形ではある。

少数派が多数派になりかわった世界は、決して平等ではない。

 

なにが言いたいって話ですけど……

恋愛を茶化すオタクが気持ち悪いなぁ……

と思っているんですよ、最近。

どうして『100日後に死ぬワニ』の「いけた」をセックスだと思ったオタクがたくさんいたんですか??

「恋愛=セックス」って極論、今後のコミュニケーションをゆがませると思うぞ。

 

いや、私もちょっと前まではリア充爆発しろ!」なんて思っていたんですけど。

「プレゼントされなくても、欲しいものは自分で買えばいいし、それが一番」

「デートの意義がわからん。行きたいところなんて、一人でも友だちとでも行けるやん」

って考えてたんですけど。

 

人の幸せを批判するのって、虚しいなぁ。
もしかしたらその幸せって、いつかは自分の元にやってくるかもしれないよな。
その時、人の批判をしていた私は、人に幸せを批判される側になるのかもなぁ。

と思ったら、なんかダメだなぁ、って。

 

あと、エミリンこと大松絵美様の影響も大きい。

エミリン様はずっとツインテールに某アニメキャラの衣装という出で立ちで、いわゆる「リア充爆発しろ!」的な動画を投稿してらしたんですけど、最近は「オシャレになりたい」「女子力あげたい」と励んでいらっしゃいます。

そうすることによって過去の自分をある意味否定しているし、そのころ嫌いだったタイプの人間に、自分からなりに行っている印象も受けます。

 

それで「エミリン変わっちゃったぴえん〜」って人もいると思うんですけど、すごく前向きだしオタクとか「こういうキャラだから」って女捨てちゃった子に、「過去もキャラも捨てていいよ」ってメッセージを体現してくださっている。

可能性を広げてらっしゃるし、どんどんすごい方とコラボしたり目標叶えたりしてるし、見ていて勝手に元気になってしまう。SUKI……。

 

時代はものすごい速さで変わっていて、価値観や世の中のものさしが対応しきれなくなっています。

時代も人も空気も、変化していくものだと思います。

昨日イエスだったものが、明日にはノーになっていることもあるから、空気や世間体は気にするほどではないかもしれない。

そんな世界だから、変わることは悪いことじゃない。その中で変わらずいることは大変だけど、自分が幸せならOKですよね。

 

自分のものさしを持ちましょう。他はあてにならないので。

他人のものさしの批判はダメ。自分に返ってきたら怖いので。

 

あとよくわかんないけど、コロナで外出られないけど、急に「恋人が必要じゃないか」症候群にかかったので、またそんな感じで書きます。

 

 

youtu.be

 

DAISUKI〜。

新社会人二年生が考える「夢」

卒業制作というやつを見ると、うまく言葉にできないのだが、なんとも言えず胸がいっぱいになってしまう。

 

昨年のそれは、明らかに才能への嫉妬からきていた。

私自身が卒業制作をする立場だった。しかしうまくいかない就職活動、それ以上に友人がどんどん就職していくことへの焦り、周りの目が哀れみを帯びているような憂鬱……そんな荒んだ心と向き合いながら制作をする日々は、今思えば大変にしんどいものだったと思う。

ほかの表現については無知なのでなんとも言えないが、小説を書くにあたり、心の衛生状態は本当に重要だ。

できあがったものは、今では目も当てられないようなひどいもので、教授にも「期待していたのに」と言われた。私だって、もっといいものがつくれたのに、と思う。

 

コロナウイルス感染症により展示そのものは中止の大学が多いが、その代わりツイッターではハッシュタグをつけて写真を公開するなどして、たくさんの卒制が発表されている。

今年も胸が痛いのはおそらく、芸術大学を卒業して、一年自分が経験した「社会人になった芸大生の末路」が見えているからだ。

学生は、卒制に命をかけている。技術に関係なく、今までの集大成だということは一目でわかる。

 

けれど、そんな芸術に命を燃やしていた学生の多くが、四月からは普通の社会人として、今までやってきたことは通用しない世界に進むことになる。

もちろんそれに近い分野で仕事を見つけた人も、「活動は趣味として続けていく」と割り切っている人もいるだろう。しかし私の周りでは、大学で学んだ分野とは違う職種についていて、創作活動もしているかわからない人が多い印象だ。

決して悪いことではない。むしろ世の中はそうやって回っているのだから、正解に等しいと思う。それが大人になるということだとも思う。

 

私にはそれができなかった。さすがに小説で食べていけないことはわかっていたが、少しでも専門に近い職につくのだとしがみついていたら、大学四年の二月という、本当にギリギリまで就職が決まらなかった。

適当なところで切り上げて、とりあえず卒制に徹するという手もあった。

趣味は趣味と割り切って、残業なし土日休みの職を探したってよかった。

だけど結局、私は「夢」というものを勘違いしたまま、ただぼんやりと頑張っている体を装っていただけなのだと思う。

 

夢をあきらめる平均年齢は、二十四歳だという。四年制大学を卒業したと仮定すれば、社会人二年目に突入した頃だ。学生に比べれば時間は減るし、社会や常識が見えてきて、仕事に慣れて「現実」にいる時間が増える。そう考えれば、納得のいく年齢だ。

「この先どうなってしまうのだろう」と学生時代に想像することはあると思うが、社会に出てからのことは、働いてからでないとわからない。芸大にない「現実」にいるというのは、案外楽なものだ。夢を忘れ、染まってしまう人の気持ちはよくわかる。

 

夢とは、叶えるものではなく、自分なりにつきあっていくものだと思う。社会人として一年過ごしてみて、つくづくそう感じる。

夢をあきらめるのも、一つのつきあい方だ。副業・趣味としてやっていく、やっぱりいずれは夢を叶える。どれも自分が納得いきさえすれば、誰も文句は言えない。

夢は叶わなくても、死ぬものでもない。道を進む一つの原動力みたいなもので、なくてもどんどん目の前の道を進むことはできるし、それで幸せに生きている人もいる。夢に縛られている方が、不幸な場合だってある。

 

そしてどこでも言われることだが、芸術で食べていける人は、ほんの一握りなのだ。

今はインターネットという発表の場がある、と思うかもしれないが、ネットで発表したものの多くは、残念ながら無料の暇つぶし以上のものにならない。もっと残念なことに、現在の若者は貧しいため、無料でない暇つぶしは手に取られない。

また、ネット発信からビジネスに発展するような活躍するというのは、正規ルートで芸術家になるより難しい。

「小説サイト発信の本とか、今どんどん出てるじゃん?」と思う人もいるだろうが、文藝・新潮といった新人賞の応募総数が約二千本なのに対し、ネットに発表されている小説が何本か、考えて見てほしい。今をときめくYouTuberだって、人気のある人はなにかしら抜きん出た特技があったり、専門家だったり元タレントだったりする。

個性やアイデンティティがなによりとされている現代だって、夢を叶えるのは難しい。

 

私自身はどうするのか、という話だが、もう少し夢に向かうことにしている。

というか十年は追いかけてきたと思っていたが、実はまだスタートラインにすら立っていなかったようだ。と、昨年新人賞に応募しては落選を繰り返し実感した。「どうして叶わないのか」と思っているとき、まだ自分がスタートラインにすら立っていないケースは多い。

 

で「要するになにが言いたいのだ」という話だが、これから新しい道を進む人や道を決めている人は、どうか夢や理想に縛られないでほしい。自分の評価というものは、実は他人の評価より厳しく、自分を締めていく。

何者かになんて、ならなくていい。個性もなくていい。夢があるなら、個性を活かしたいなら、それは本当に苦しい道になるけれど、死なない程度に進んでほしい。

また、思いがけないところで夢が叶うこともある。私は色々あって現在、文章を書くことを仕事の一部にすることができた。それに必要なのは自分を発信すること、目の前のことに全力で取り組むこと。周りは案外見ているから、望まない環境に立たされたとしても、全員敵だと思い込まない方が得だ。

 

ヤマもオチもない話になってしまいましたが、四月から環境の変わる人も変わらない人も、夢や自分に期待をしすぎないよう、転ばないように目の前の道を進んでください。

寝る前に歯磨きできたら百点満点でいいんじゃないでしょうか。こんなご時世ですし、お身体に気をつけて。

近況報告

今年初になってしまいました。

あけましておめでとうございます!

 

それなりに長い小説を書いたり、「いやあんなブログ書いておいて、次なに書けばいいんだよ」と悩んだりして、渋っていたらこんなことになってしまいました。

 

それなりに反応をいただけて「別に励まされたいわけじゃないのになー」と思いつつ、人ってあたたかいんだなぁと再確認しました。

 

私も私で、あきらめがついた気がします。「人は人、自分は自分」というのを、改めて意識するようになりました。幸せは他人が運んでくれるものではないから、しっかりしないといけませんね。

そして社会に出るうちに、自分HSPとか関係なく変なやつじゃん……というのも少しずつわかりました。ふっきれるしかなくね?

 

年末にZepp聖飢魔Ⅱの解散ライヴを11時間ぶっ通しで観たのですが(開催したやつも参加したやつも、どうかしてると思う)、最後の言葉でルーク篁参謀が

「個性的っていうのは、孤独なこと。だけど貫いていけば、ついてきてくれる人がいた」

っておっしゃっていたのが(うろ覚えなので間違ってたらすいません)大変心に残っています。自分に置き換えて話せるかと思ったらそんなことなかったので、参謀マジ最高ってことでシェアハピだけしておきます。

 

あ、

聖飢魔Ⅱが再集結しますわよ!!

 

ということで今年はパワフルに生きなきゃですし、書くものもどんどん溜まっているので書いていきます。

あと曜日決めれば書くかと思ったけど、なんか思いついても「今日月曜じゃねぇしな〜」ってスルーかましてしまうので、「何曜日だっていざよいちゃん!」にそのうちなるかもしれません。

 

今年もよろしくお願いします!!

生きづらさに名前がほしかった。

突然ですがみなさん、HSPってご存知でしょうか?
Highly sensitive person の略で、すごく簡単に説明すると『人一倍敏感・繊細な気質を持つ人』のことです。
色々なことに気づき、普通の人よりたくさんの情報を受け取ってしまうため、精神的に疲れやすいという課題を持っています。
ちなみに病気ではなく、生まれ持った気質を指します。
五人に一人がHSPの気質を持っているそうで、これは十人に一人と言われている左利きの人よりも多く、単純計算でSMAPにも嵐にも一人はいるってことですよね(偏見だけど)。
なぜこんな話をするのか? まあ、ちょいちょい言ってるし、察することができるだろうけど。

 

私、生きづらいと思ったらHSPでした。

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この本を勧められて読んでいたのですが、HSPの特徴は、私の生きづらいエピソードと恐ろしいほどに一致していました。
題材にしてブログを書くのはどうかなーと思ったし、これも一回書き直しているんですけど(なにせ判明してから一か月くらい経ったので)、
HSPってまだあんまり知られていない気がするし、なにより自分の感情を整理したいのでいろいろ書いていきます。


1.具体的に困っていること

(*HSP特有の神経質さ・感受性の豊かさはデフォルトとします)

 

①他人の感情に共感しすぎて、自分の感情が迷子になる

基本的に「察する」という能力が人一倍高いため(そのせいで困りまくっているので、自慢じゃないです)、
表情や状況を見るだけで、その人の気持ちは痛いほどに伝わってきます。
痛いほどに伝わってくるため、それが自分の感情だと勘違いしてしまいます。
たとえば私は、ショッピングモールでお小さいお子さんが泣いていると、
「辛そうだなあ」「お母さんも、あんなふうに言わなくていいのにな」などと考えてしまい、
買い物に集中できなくて買い忘れが多発します。わりと日常的に。

 

②問題が起こると、自分をまず疑う

「察する」を通り越して、「被害妄想」から抜け出せないこともあります。
人がイライラしていると、自分の行動を思い返して
「自分がやった、あれのせいかな? これのせいかな?」と考えてしまいます。
①も加わって、仕事で同じ部署の人が怒られていると、自分が怒られている気分になってしまいます。


(*上記二つは被害妄想の中で生まれ、ただの勘違いに終わるケースは非常に多いです)

 

③断れない、怒れない、頼れない

「いい人に見られたい」という思いからではなく、「この人を困らせてはいけない」という思いから、頼まれたことは基本的に断れません。
仕事をしながらもさまざまな点に気づいてしまうため、完璧を求めます。時間もかかります。
他人に頼られながらも「迷惑はかけられない」と、自分は人を頼れません。
人の仕事の出来が自分の三分の一でも、
「自分も完璧じゃないから」「無理なら仕方ないから」と怒れません。

 

④価値観の違いに戸惑う


③のように他人ベースで動き、言わずとも察することができてしまうため、
他人が自分の「当たり前」から外れていることに違和感を覚えてしまいます。
たとえば自分の予定を犠牲にして友だちと会う約束をしたのに、相手がドタキャンしてきて悲しくなったり、イライラしたり(でも相手には言えない)。
相手の気持ちを察して動いたのに、鈍感な相手はそれを返してくれなかったり。
最近は「しかたないなー」と思えるようになりましたが、人間関係で疲れるのは人の好き嫌いより、こっちでした。好きな人だと怒れないし。

 

こうしたことに対して、よく「気にしなくていいよ」と言っていただけます。
だけど、一度気になってしまったらもう、無理なんですよね。
たとえば目の前を歩いているお兄さんが金髪だったとして、「かっこいい」「不良みたい」「人は髪形じゃないよ」など意見はさまざまだと思うんですけど、
その人が金髪だったことを気づかない状態に戻すのって、不可能じゃないですか?
他の人にとっては通行人Aかもしれないけど、私にとってはもう金髪のお兄さんなんですよ。
それで「なんでみんな、あの人が金髪って気にならないんだろう?」っていうようなずれが、私の生きづらさだったんだと思います。

 


2.HSPが判明して、生きやすくなったのか?

生きづらさに名前がつけば、生きやすくなるものだと思っていました。
咳が止まらないとき「カゼ? もしかして結核?」って心配になるのは、それがなんなのかわからないからで、名前がわかるだけでも不安は治まるだろうと。

そして病名がわかれば、たとえ結核だったとしても
治療法や向き合い方はわかっていくから、まずは名前を知ることが大事だろうと思っていたのです。
そして本当に苦しんでいる方々には申し訳ないのですが、私は自分に精神病・あるいは発達障害があるものだと思っていました。
そうした人に共感できる部分はあったし(今思えばHSPだから)、不登校してたころのダメな自分が今もどこかに残っている気がしていて。

原因がわかることで、気持ち的に楽になる部分はありました。
悩んでいたことに対して「十分幸せなのに」「考えすぎなだけ」と言われることもあったけど、私は間違っていなかった。
「周りとずれている」と言われる原因の一つもわかった、周囲も間違ってはいなかった。

 

だけど私は、病気ではない(調べれば出てくるかもしれないけど)。
専門のカウンセリングや向き合い方はあったけれど、根本的に治療することは不可能です。
ってなった瞬間、今まで「どうしたら人にわかってもらえるんだろう」って色々考えていたことは全部無駄で、あきらめるしかないのか、と淋しい気持ちになりました。

同時に「優しいよね」「気が利くね」と言ってもらえることもあった自分の行動が、人を思うためではなく性質上やってしまったことだと判明して、
「じゃあ今まで人に見せてきた自分って、なんだったんだろう?」とも考えてしまいます。

 

 すごくネガティブなんですけど多分、喉が痛いと薄々思って来たが医者に「風邪ですね」って言われて、その瞬間、身体がめちゃくちゃだるくなってきた……みたいな現象が今、私の中で起こっているだけだとは思います(伝わる?)。

 

 

3.人はなぜ、生きづらさをカミングアウトするのか

発達障害メンタルヘルスセクシャリティ、その他諸々。
SNSでサクっと発信できる時代と、多様性重視の風潮のせいか……

世の中カミングアウトブームじゃないですか?
さっき書いた通り、生きづらさに名前があっても生きやすくはならないし、カミングアウトしたところで逆に攻撃されてしまう可能性まで出てくるわけで、なにも楽しくはないですよね多分。

だけど発信するって、すごく大事だと思います。
さっきも書いた通り、咳が止まらなくて不安な人がいたとして、
誰かが「こんな症状の私は、結核だったんですよ。だから病院に行って、こうして~」ってネットに書き込んでいたら。
「こうすればいいんだ!」という他に、こういう感情が芽生えてくるはずです。

「私一人じゃなかったんだ」

生きづらさにある不安要素の一つは、孤独だと思います。
自分と同じ思いをしている人がどこかにいるとしたら、「私もだよ~」って率先していった方がいい。自分が孤独なら、なおさら。
「一人じゃなかった」「こうして治療した・向き合った人がいた」っていうのは、誰かの希望になります。

 

私は中学時代、自律神経失調症で学校に行けなくなったとき、説明しても先生たちに「そんな病気は聞いたことがない」と言われました。
それで四年後に、同じ中学の後輩にあたる知り合いが、同じ症状で学校に行けなくなってしまったんですけど、
私の母はその子のお母さんの相談に乗っていたし、学校の理解度も私のころよりはるかによくなっていました。
なんかおこがましい話ではありますが、前例って大事だと思います。

 

あとエッセイ出して大儲けしてる人に対しては、今までの生きづらさ思ったら大金稼ぐでもしないと割に合わないよな、って思う。


ただ自分と同じ生きづらさを抱えているからって、自分のすべてを理解してくれる人だと思い込んだり、依存したりするのは本当によくない
HSPだからって、すべて同じポイントに敏感な訳ではないらしいですし(ある人は大きい音がだめで、ある人は強い匂いがだめ、みたいな)。

 


4.この世を燃やしたって、一番ダメな自分は残る

大槻ケンヂが沁みてきたら、メンタルがやばい合図だと個人的に思っているのですが。でもオーケンだいすき~。
これから書くのは自分へのいましめなので、特定の人への悪口ではないです。

暗い過去を生きづらさのせいにして、前を向いて生きていくのも一つの手だけど、

たまに生きづらさによっかかって、身勝手にふるまう人をたまに見かけます。
いい例えが思いつかないんだけど、メンヘラだからってリスカ画像上げちゃう人、とかかな……。

うーん、どうしてもできないことってあるとは思うんですけど、頑張ればできることはやった方がいいよなって思うんですよ。
五体不満足』の中で乙武洋匡さんが「もし『自分は障害者なのに、誰も助けてくれない』と思っている人がいたら、自分にある障害以外の問題に目を向けてみよう
というようなことを(うろ覚えですが)言っていました。

生きづらさは自分の一部であり、そうでない部分もあるけれど、他人はすべてまとめて相手を見ていると思います。
人間は誰しも欠点を持っているし、それをカバーできる長所も同時に持っているのです。


あと、生きづらいポイントを個性とか、長所として伸ばそう! っていう考えはなにも考えずに賛同はできませんね~。


人と違うところを「それが君の個性なんだね!」ではなく、
「それが君の当たり前なんだね」と言ってもらえる世界にはやくなってほしい。

多分私が人とずれてる原因はHSPだけではないだろうし、もっとHSPとか生きづらさを解明するには必要な知識があるだろうし、
はやく「昔、果たし状もらったことがあってね~ははは」って今話せるくらいに、軽く考えられる日が来てほしいな。

 

それと、このブログは「私の生きづらさは過去にあるのか」と思って整理してくための記事が多かったんですけど、
そうでもなさそうなので随時消してしまっています。
下書きには残っているから、笑い話にできるころになったら、また引っ張ってきますね。

 

http://hspjk.life.coocan.jp/selftest-hsp.html

HSP診断です。

これ以外にもネットに転がってますが、HSPの提唱者であるエレイン・N・アーロン博士のものなので、一番的確だと思います。

 

 

ついでに、世界一好きなカミングアウト動画を観てください。

youtu.be

 

推しへの感情は、愛ではないのかもしれない。

例えばそれが愛だとすれば 注ぎ続ければいい

裏切られたらサヨナラなんて 白状したも同じさ

聖飢魔ⅡBRAND NEW SONG(作詞・作曲: ルーク篁、編曲: 聖飢魔II松崎雄一

 

オタクってなんで、かわいくて仕方ないはずの推しに「解釈違い」 なんて言ってしまうんだろうな……

(*解釈違いとは、オタクが文字通り「推しちゃんが、拙者の解釈と違うことをしているのだが?」と怒ることです)

 

 

少し時間が経ってしまいましたが、滝口幸広さんの訃報には大変驚きました。

滝口さんは、私がはじめて推し俳優を観に行った舞台に、出演されていらっしゃいました。それだけ心に残っていた俳優さんでしたし、他の舞台俳優さんが心を痛めていらっしゃる様子がSNSでもたくさん見受けられ、心が痛かったです。

(「ご冥福をお祈りします」という旨の表現が好きではないため、ここでは使いません)

 

「推しは推せるうちに推さなくては」と改めて思い、そこで気が付きました。

「最近、舞台観てないな」と。

 

おそらく原因は二つありまして、一つは好きな演出家のワークショップに参加して、いろいろ汚い部分を見てしまったこと。

もう一つは、推し俳優が出演している舞台を面白いと思えなくて、

「推しって本当に、この仕事楽しくてやってるのかな。いや、本人は楽しいかもしれないし……」

などと考えてしまい、足が遠のいてしまっていること。

 

「めちゃくちゃ自分勝手じゃない?」と思うとともに、

「でも私より身勝手なオタクっていっぱいいるし……」という気持ちもあり。

 

izayoi1226.hatenablog.com

 オタクは実にちょっとしたことで、推しを推すことをやめてしまうのです。

「ファンは落ち目こそ応援しないと!」「どんな推しでも愛さないと!」

という声はありますけど、推せなくなる日は突然にやってきてしまうのです。

 

思うんですけど、推しへの感情って、愛じゃないんじゃないですか?

例えば本当に愛してる人って、髪形変えたくらいで絶望しますか?

本当に愛してる人なら、歳とって太ってハゲようが、「解釈違い」なんて言えないんじゃないですか?

変化ごと受け入れて、「一生一緒にいさせてくれや」ってことじゃないんですか……?

 

 

考えたんですよ、掘り下げようとしたんですよこの気持ちを。

そこで辿りついてしまいました。

 

 

「私はかわいい(あるいは、かっこいい)推しが大好き!」

 

この感情だけに目を向けるから、愛だと勘違いをするんですよ。

違うでしょう。その言葉には、続きがあるんですよ。

 

「私はかわいい(かっこいい)推しが大好き!

 

だからこれからも、今のまま存在していてね!」

 

 

これじゃないですか?

 

愛じゃないんですよ、恋に近いんです。

っていうかエゴなんですよ。

 

 

オタクは自分のエゴに推しを当てはめて、その解釈にぴったり当てはまるものだけを推す自分勝手な生き物なんですよ。

「今、一瞬したかわいい顔したじゃん。それ、ずっとしてくれ」っていう、無茶な永遠を望むモンスターなんですよ。

だからオタクの気持ち悪さは、

「絶対恋愛関係になれないもの(あるいは無機質なもの)に愛を注いでいるから」

ではなく、

「自分のエゴを正当化しているから」

なんじゃないですか。

自分の創作したキャラクターにハマってしまうオタクをよく見るんですけど、

そりゃあエゴから産まれたエゴ太郎なんですから、推さないわけがないんですよね。

 

「推しの全てを受け入れてきた」というパターンでも、本当の愛であることって少ないと思うんですよ。『しくじり先生』でとにかく明るい安村氏が

「不倫をしそうにない人ほど、世間から叩かれる」

と言っていましたが、推しの不祥事を許せる人って

「私の推しはモテモテだから、彼女くらいいるし、二股しててもおかしくないよね!」
「私の推しってばちょっとワルだから、犯罪くらいは目をつぶらないとね!」

ってことなのではないかなあ。

不祥事よりキツいのはですよね。

「今のまま」でいることはおろか、「存在していてね!」が不可能になるので。

 

 

はい、話変えるよ~。オタクだから自分の推しの話しちゃうよ~!

そして今私が夢中になっているのが、聖飢魔Ⅱ及びデーモン閣下なのですが、閣下はオタクがハマったら抜け出せないプロセス通りに生きているお方だと思うのですよ。

デーモン閣下って、要するにバーチャルYoutuberみたいなことだよな」

というようなツイートを見かけたことがあるのですが、その通りだなあと思いました。

閣下は悪魔として登場し、存在を知らしめ人の心をつかみ、依然として悪魔であり続けているのです。

聖飢魔Ⅱは方向性の違いや不祥事や不人気からではなく、デビュー当初から

「一九九九年に世界征服をして解散する」

と言って、有言実行したバンド(に見せかけた悪魔教布教団体だけど)なんです。

 デビュー当初から見ていた人は、いろいろ思うことはあるかもしれないけど、私は閣下に解釈違いを感じたことはないし、永遠に閣下は閣下であり続けるだろうと感じられるのです。

十人の人がデーモン閣下を思い浮かべたら、全部解釈は一緒だろうと思うんですよ。

 

最後まで閣下たっぷりなんです。その点、閣下ってすげーよな。

 

 

「そんなわけない! 拙者の愛はモノホンで候!って思うオタクもいるでしょうけど。

 私はこれにたどりついた途端、すごく気持ちが楽になりました。

推しは推せなくなったら、見捨ててもいいんですよ。

そこで「推しを愛せないなんて……」って悩まなくていいんですよ。

全部エゴなんだから。

(いや、もうこれに気づいているオタクは、わんさかいるのだろう。とも思います)

 

 

推しにとっても、オタクなんて都合のいいお客さんの一人にすぎないだろうし。

生き方も信念も受け入れてもらうこと、お客さんに求めないでしょう?

それは推しじゃない、教祖。

(私の推しは教祖だったんだけど。でも今は教祖じゃないんですって)

一人一人に思い入れとかないだろうからさ、適切にお金を払って、ただ解釈の一致する推しを鑑賞すればいいのです。

面白くない舞台でも推しの顔面が好きなら、もうそこだけ二時間堪能して、ブロマイド買って、それをおかずにご飯三杯食べれば大正解。

悩んでいる間にも時間は経って、推しを推せる時間は短くなっているんですよ。

 

さあ、面倒な話はこれくらいにして、次のチケット戦争行くわよ~。