推しへの感情は、愛ではないのかもしれない。
例えばそれが愛だとすれば 注ぎ続ければいい
裏切られたらサヨナラなんて 白状したも同じさ
聖飢魔Ⅱ/BRAND NEW SONG(作詞・作曲: ルーク篁、編曲: 聖飢魔II・松崎雄一)
オタクってなんで、かわいくて仕方ないはずの推しに「解釈違い」 なんて言ってしまうんだろうな……
(*解釈違いとは、オタクが文字通り「推しちゃんが、拙者の解釈と違うことをしているのだが?」と怒ることです)
少し時間が経ってしまいましたが、滝口幸広さんの訃報には大変驚きました。
滝口さんは、私がはじめて推し俳優を観に行った舞台に、出演されていらっしゃいました。それだけ心に残っていた俳優さんでしたし、他の舞台俳優さんが心を痛めていらっしゃる様子がSNSでもたくさん見受けられ、心が痛かったです。
(「ご冥福をお祈りします」という旨の表現が好きではないため、ここでは使いません)
「推しは推せるうちに推さなくては」と改めて思い、そこで気が付きました。
「最近、舞台観てないな」と。
おそらく原因は二つありまして、一つは好きな演出家のワークショップに参加して、いろいろ汚い部分を見てしまったこと。
もう一つは、推し俳優が出演している舞台を面白いと思えなくて、
「推しって本当に、この仕事楽しくてやってるのかな。いや、本人は楽しいかもしれないし……」
などと考えてしまい、足が遠のいてしまっていること。
「めちゃくちゃ自分勝手じゃない?」と思うとともに、
「でも私より身勝手なオタクっていっぱいいるし……」という気持ちもあり。
オタクは実にちょっとしたことで、推しを推すことをやめてしまうのです。
「ファンは落ち目こそ応援しないと!」「どんな推しでも愛さないと!」
という声はありますけど、推せなくなる日は突然にやってきてしまうのです。
思うんですけど、推しへの感情って、愛じゃないんじゃないですか?
例えば本当に愛してる人って、髪形変えたくらいで絶望しますか?
本当に愛してる人なら、歳とって太ってハゲようが、「解釈違い」なんて言えないんじゃないですか?
変化ごと受け入れて、「一生一緒にいさせてくれや」ってことじゃないんですか……?
考えたんですよ、掘り下げようとしたんですよこの気持ちを。
そこで辿りついてしまいました。
「私はかわいい(あるいは、かっこいい)推しが大好き!」
この感情だけに目を向けるから、愛だと勘違いをするんですよ。
違うでしょう。その言葉には、続きがあるんですよ。
「私はかわいい(かっこいい)推しが大好き!
だからこれからも、今のまま存在していてね!」
これじゃないですか?
愛じゃないんですよ、恋に近いんです。
っていうかエゴなんですよ。
オタクは自分のエゴに推しを当てはめて、その解釈にぴったり当てはまるものだけを推す自分勝手な生き物なんですよ。
「今、一瞬したかわいい顔したじゃん。それ、ずっとしてくれ」っていう、無茶な永遠を望むモンスターなんですよ。
だからオタクの気持ち悪さは、
「絶対恋愛関係になれないもの(あるいは無機質なもの)に愛を注いでいるから」
ではなく、
「自分のエゴを正当化しているから」
なんじゃないですか。
自分の創作したキャラクターにハマってしまうオタクをよく見るんですけど、
そりゃあエゴから産まれたエゴ太郎なんですから、推さないわけがないんですよね。
「推しの全てを受け入れてきた」というパターンでも、本当の愛であることって少ないと思うんですよ。『しくじり先生』でとにかく明るい安村氏が
「不倫をしそうにない人ほど、世間から叩かれる」
と言っていましたが、推しの不祥事を許せる人って
「私の推しはモテモテだから、彼女くらいいるし、二股しててもおかしくないよね!」
「私の推しってばちょっとワルだから、犯罪くらいは目をつぶらないとね!」
ってことなのではないかなあ。
不祥事よりキツいのは死ですよね。
「今のまま」でいることはおろか、「存在していてね!」が不可能になるので。
はい、話変えるよ~。オタクだから自分の推しの話しちゃうよ~!
そして今私が夢中になっているのが、聖飢魔Ⅱ及びデーモン閣下なのですが、閣下はオタクがハマったら抜け出せないプロセス通りに生きているお方だと思うのですよ。
「デーモン閣下って、要するにバーチャルYoutuberみたいなことだよな」
というようなツイートを見かけたことがあるのですが、その通りだなあと思いました。
閣下は悪魔として登場し、存在を知らしめ人の心をつかみ、依然として悪魔であり続けているのです。
聖飢魔Ⅱは方向性の違いや不祥事や不人気からではなく、デビュー当初から
「一九九九年に世界征服をして解散する」
と言って、有言実行したバンド(に見せかけた悪魔教布教団体だけど)なんです。
デビュー当初から見ていた人は、いろいろ思うことはあるかもしれないけど、私は閣下に解釈違いを感じたことはないし、永遠に閣下は閣下であり続けるだろうと感じられるのです。
十人の人がデーモン閣下を思い浮かべたら、全部解釈は一緒だろうと思うんですよ。
最後まで閣下たっぷりなんです。その点、閣下ってすげーよな。
「そんなわけない! 拙者の愛はモノホンで候!」って思うオタクもいるでしょうけど。
私はこれにたどりついた途端、すごく気持ちが楽になりました。
推しは推せなくなったら、見捨ててもいいんですよ。
そこで「推しを愛せないなんて……」って悩まなくていいんですよ。
全部エゴなんだから。
(いや、もうこれに気づいているオタクは、わんさかいるのだろう。とも思います)
推しにとっても、オタクなんて都合のいいお客さんの一人にすぎないだろうし。
生き方も信念も受け入れてもらうこと、お客さんに求めないでしょう?
それは推しじゃない、教祖。
(私の推しは教祖だったんだけど。でも今は教祖じゃないんですって)
一人一人に思い入れとかないだろうからさ、適切にお金を払って、ただ解釈の一致する推しを鑑賞すればいいのです。
面白くない舞台でも推しの顔面が好きなら、もうそこだけ二時間堪能して、ブロマイド買って、それをおかずにご飯三杯食べれば大正解。
悩んでいる間にも時間は経って、推しを推せる時間は短くなっているんですよ。
さあ、面倒な話はこれくらいにして、次のチケット戦争行くわよ~。